イメルダさん
1986年の人民革命によって独裁者マルコス大統領は米国へ逃亡。マラカニアン宮殿にはイメルダ大統領夫人が所有する3000足もの靴があり大きな話題になった。近年、物欲の権化イメルダさんの映画も製作された。
以下、ウィキペディアから彼女のプロフィールを追ってみよう。
生い立ち
1929年にイメルダ・マルコスはアメリカの植民地であったフィリピンのマニラに生まれた。弁護士ヴィセンテ・ロムアルデスと妻レミディオスの長女であったが、父には前妻との間に生まれた子が5人いた。
その後の1938年に、ヴィセンテは生活上の困難のため出身地レイテ島タクロバン市に帰り、イメルダはタクロバン市のホーリー・インファント学院(高校)とセントポール大学を卒業した。第二次世界大戦後にフィリピンは独立を果たす。
大統領夫人
自己顕示欲が旺盛なイメルダは、芸能人になることを目指して1953年にマニラで「ミス・マニラ・コンテスト」に出場したが次点に終わった。
しかしその後の1954年5月1日に、当時若手のホープとして政界で注目を受けていた下院議員のフェルディナンド・マルコスと結婚。1965年にマルコスが大統領に当選すると大統領夫人となった。その後長女アイミー、長男フェルディナンド・マルコス2世、次女アイリーンの3人を出産している。
国政介入
フィリピン大統領夫人となった後のイメルダは、単なる大統領夫人に終わらず、独裁者として君臨した夫の威を借りて積極的に国政にも介入した。
自ら企画したマニラ文化センターをオープンさせたのを皮切りに、1974年には、自ら訪中して貿易拡大書簡に調印。さらに1975年にはマニラ首都圏知事にも就任した。1978年には環境住居相に就任している。
なお、1972年12月7日、マニラでの式典の最中に刃物を持った暴漢に襲撃され、手を負傷。その瞬間は、犯人がその場で警察に射殺される様子も含めて一部始終がテレビで生中継されていた。
失脚
しかしこの様な夫婦による国家の私物化は国民の反発を買い、1983年8月に発生したマルコスの政敵のベニグノ・アキノ暗殺事件を受けて1986年に発生した「人民革命」でマラカニアン宮殿を追われたマルコスとともにハワイに亡命した。マラカニアン宮殿には3000足の外国製靴、500着のブラジャー、数え切れないほどの香水が残されていたと語り草になっている。
なお亡命先のハワイにてマラカニアン宮殿に残してきた大量の豪華な靴が無いことを嘆いた事が報道されると「同情」した人々により「善意」で片方だけの靴や サイズが不揃いで履けない靴や古ぼけて汚れた靴が主にアメリカ本土より大量に亡命先に届けられた。この善意に対する感謝の言葉は無かった。
その後はハワイのオアフ島にある屋敷で夫婦で暮らしたが、1989年にはハワイで夫の死を看取り、1992年にフィリピン政府からの許可を受けて帰国した。
国政
1992年大統領選に出馬するも、落選。1995年にはレイテ島で下院議員に立候補して当選した。しかし任期が終わった2001年に不正蓄財の容疑で逮捕収監された。2009年12月には再び下院議員に立候補し、2010年5月の選挙で当選した。同時に下院議員で北イロコス州知事選挙に立候補した娘のアイミー・マルコス、北イロコス州知事で上院議員に立候補した息子のフェルディナンド・マルコス・ジュニアも同じく当選している。
(転載以上)
イメルダさんを支持する人たちはマルコス一族から恩恵を受けた人の他、貧困家庭から大統領夫人になったフィリピン版アメリカンドリームの体現に共感を寄せるのであろう。妻もイメルダさんのことは否定しない。
しかしながらウィキのプロフを読む限りイメルダさんは物欲の他、自己顕示欲、権力欲、独占欲、金銭欲、見栄、虚栄心に支配された怪物女だ。
おーヤダヤダ。
written by bibbly